貴重な休日に気の済むように歩いた。考え事しながら25km歩いた。結論は出なかったが考え抜くことで気が済んだ。分からないことは分からないままでいい。精神科の先生がくれた金言をずっと大事にしている。
実はここ数週間、仕事でずーーーっと残業続きで参っていた。激寒とインフルの脅威と体調不良ににおびえつつ休むわけにいかず忙殺の日々のせいで心がズタズタにやられていた。しかもその仕事は先々どうなるかわからなくて虚しかった。未来があるから頑張れる。先があるから改善しようともする。しかしそれがない以上、情熱を傾けることができない。
この手の話でいつも思い出すのはお腹の中で死んでしまった胎児を薬剤で陣痛を起こして産み出さざるを得なかった妊婦さんのこと。喜びと幸せと未来に包まれているはずの出産が。それでも不幸だったけれどその妊婦さんはそのおかげで身体を温存してまた次の妊娠に備えられたんだから、と思うしかやりきれない。
振り返ってみれば、この数週間ですごい成果と実績を上げたではないか。どうなるかわからない、なくなる仕事かもしれない、と分かっていても手を抜かず、新しいことを開拓したではないか。堂々とやっていればいいではないか。
なくなる仕事、残る仕事、新しく生まれる仕事。
次男は、これから将来自分たちの仕事がなくなるのは親たち世代ががんばりすぎたからだ、と言い放った。どんどん便利にしてきたせいだ、と。ひどい言い掛かりだ、しかし一理ある。かつて消えていった仕事として「電話交換手」「キーパンチャー」がよく挙げられるが、今あるどんな仕事だって取って代わられ無くなっていく。自分が任されている間はせめて完璧にやりこなしたいと思って取り組むしかないのだ。
働き者の手。仕事も家事も育児も。家人には「家事が全くできていない」となじられるがそんなつもりはない。これ以上できないくらい、がんばっている。やってほしいこととできることのレベルが合わないから話はかみ合わない。仕方がない。
気が付くと手にすごく加齢を感じた。ガサガサのシワシワになっていた。使うばかりで手当て、手入れをしていなかった。
誕生日でも記念日でもないけれど、やつれてくたびれた手がかわいそうになって、若いころから細いままの指を飾ってあげたくなった。こんな若い人が好むブランドの品を自分のために買ったのは初めてである。心に住む人からの贈り物だと思って大事にする。